「差別」と「区別」の行動的定義の思考

yohei11152012-12-11


 世の中でときどき頭を悩ますものとして、「差別」と「区別」の違いがある。この2つの言葉は「一見して同じように見えて違う」という意見と、「本質的には同じ」という意見に分かれる。区別することそのものがよくはないといった意見もあるだろうが、果たして区別することなしに我々は生活できるのであろうか。対人援助を行う上でも、

日本国語辞典によると、「差別」とは、

(1)けじめをつけること。差をつけて区別すること。ちがい。分別。しゃべち。しゃべつ。
(2)特に現代において、あるものを、正当な理由なしに、他よりも低く扱うこと。

となる。おそらく(2)の定義がもっとも一般的に使用されているのではないだろうか。ただし、(1)に"差"をつけて区別するという意味がある。

次に、「区別」は、

(1)ある事物を違いや種類によって分けること。また、その違い。

となっている。ここに"差"をつけるという意味はない。

 では、行動的定義ではどのよう考えることができるのであろうか。行動的定義をするということは、それが「行動」でなくてはならない。そのためまずは単純に「差別する」と「区別する」と変換する。その後、それぞれの行動がどのような行動なのかを考察する。

 これらの2つの行動を考えるにあたって、QOLを一つの視点として取り入れたい。さて、先に挙げたように行動的定義とするにはQOLも行動として捉えねばならない。これまで望月(2005)はQOLに行動的QOLを提案している。行動的観点からQOLを拡大する作業を「正の強化を受ける行動機会の選択肢を増大する」こととしており、つまり、行動的QOLとは、正の強化により維持される行動の選択肢の数」である。これでは当事者のとりうる行動の数で表現しており、操作可能なものである。

 では、区別されることにより、どのようにQOLが変化し、差別されることにより、どのようにQOLが変化するのであろうか。「区別する」というのは当事者の行動選択肢の増加または維持がなされる。「差別する」というのは当事者の行動選択肢の減少を意味する。 例えば「Aだから〜をできない、させない」は差別と解釈できるが、「Aだから〜をして、〜をできるようにする、できないようにさせない」は区別になるのではないだろうか。つまり、区別することにより当事者の行動的QOLが増加するように働きかけることは可能であるが、差別することではそれは生まれない。

 また、望月(2007)は「障害者割引」についてブログで書いているが、より具体的な随伴性に関しての言及がなされている。割引はハンディに対しての援助設定としてあるが、その援助のあり方や具体的支給方法について書いている。少し長いが一文をそのまま引用してみる。

第二の軸は、そもそも「割引」というのは、特定の対象に限定したものであるということです。先に述べたように「割引」というのは、その交換の時点では、電車に乗るとか、タクシーに乗るといったように用途限定です。用途という特定の行動の成立に対して選択された上で割引はおこなわれているわけです。当然ながら「ラッキー」ではあってもその行動選択肢は他と較べて、使う側にも選択しやすいものです。選択しやすくなる、というそれだけを捉えれば、ポジティブな話なんですけど、選択を他者に指定されているともいえます。個人個人で、その「割り引かれる」選択肢を選べるかというと、そういうシステムではないですよね。では、割引かれる行動の選択肢を自分で選べるという風にするにはどうしたらよいか、と考えてみると、それは実は「お金」で渡しておくということです。

割引があることはハンディへの「区別」として捉えることだできるが、用途が限定しているというのはまだ「差別」的なのかもしれない(しかしながら、そもそもそこにハンディがあることがやはり差別的なことなのかもしれない)。

 以上、それぞれがもつ本来の言葉の意味は異なるのであろうが、日常的に使われている意味と、行動的QOLの観点から考察すると「区別する」ことと、「差別する」ことは以上のようになるのではないだろうか。このように"区別する"ことが、どのように社会的有用性を持つかは定かではないが、行動的観点からの「どうして区別するのか?」という疑問に対しての1つの回答に、「どうして差別してはいけないのか?」という疑問に対しての1つの回答になろう。

引用

望月昭. (2001). 行動的QOL : 『行動的健康』へのプロアクティブな援助. 行動医学研究, 6, 8-17.