研究業績目録

【論文】

平川聖子・山里辰也・堀 浩二・東方広海・仁田原 誠・永海哲広・保利哲也・尾西洋平・中禮裕子・武田巨史・東定荘士郎・永野恵美・橋本直子・吉本眞也・藤金倫徳(2015) インクルーシブ教育システム構築を目指した合理的配慮の検討(I)−特別支援学級での検討−. 福岡教育大学附属特別支援教育センター研究紀要, 7, 19-25.
中原真吾・今岡千明・中村国広・武田巨史・堀 浩二・堀 修二・中禮裕子・尾西洋平・登 由美子・吉本 悟・林田眞姫・土器 修・高山 剛・姫島和久・最所健太・郄浪伊織・吉本眞也・藤金倫徳(2015) インクルーシブ教育システム構築を目指した合理的配慮の検討(II)−交流及び共同学習での検討−. 福岡教育大学附属特別支援教育センター研究紀要, 7, 13-18.

※上記2つは合理的配慮協力員として参加し、研究に対する指導や助言を行いました。

【ポスター発表】

(単独発表)

尾西洋平. 2012. 多元スケジュールのもとでのスケジュールパフォーマンスの獲得における自己ルールの共有の効果. 日本行動分析学会第30回年次大会発表論文集, 45.

(共同発表:主発表)

尾西洋平・井上栞・小島遼・中鹿直樹・望月 昭・土田菜穂・友田英華. 2013. CaféRits; ポートフォリオを構築するための模擬喫茶店舗−特別支援学校と大学との情報移行を通じてのポートフォリオの作成−. 対人援助学会第5回年次大会発表論文集, 31.
(抄録→ http://www.humanservices.jp/meeting/2013/10.pdf )
尾西洋平・森本有絵・小島 遼・玉井貴子・乾 明紀・中鹿直樹・望月 昭. 2013. 模擬喫茶店舗における知的障害をもつ成人に対するビデオモデリングとセルフ・モニタリングの介入パッケージの効果. 日本行動分析学会第31回年次大会発表論文集, 102.
尾西洋平・中鹿直樹・林 荽廷・太田隆士・乾 明紀・望月 昭. 2012. 累積記録を用いたスケジュールの自己管理行動の表現. 対人援助学会第4回年次大会発表論文集, 18.
(抄録→ http://www.humanservices.jp/meeting/2012/6.pdf )

(共同発表:連名)

井上 栞・尾西洋平・小島 遼・中鹿直樹・望月 昭・土田菜穂・友田英華. 2013. 模擬喫茶店舗の実習を通して発見された障害がある高等部生徒における伝票計算のためのカイゼン. 対人援助学会第5回年次大会発表論文集, 32.
(抄録→ http://www.humanservices.jp/meeting/2013/11.pdf )
中鹿直樹・尾西洋平・小島 遼・土田菜穂・望月 昭. 2013. 知的障害のある高等部生徒の就労実習における職業行動への自発的関与を促進する条件, 日本行動分析学会第31回年次大会発表論文集, 100.
中鹿直樹・尾西洋平・小島 遼・林 荽廷・望月 昭・土田菜穂. 2013. プロファイリングからポートフォリオへ学生ジョブコーチの実践から支援をつないでいくための「情報」について考える. 対人援助学会第5回年次大会発表論文集, 30.
(抄録→ http://www.humanservices.jp/meeting/2013/9.pdf )
望月 昭・中鹿直樹・尾西洋平・林荽廷・乾 明紀. 2012. 「学生ジョブコーチ」による障がい者就労支援の役割. 対人援助学会第4回年次大会発表論文集, 17.
(抄録→ http://www.humanservices.jp/meeting/2012/5.pdf )
中鹿直樹・川村徹也・尾西洋平・望月 昭. 2012. 知的障がい者の就労場面における役割設定の効果. 対人援助学会第4回年次大会発表論文集, 19.
(抄録→ http://www.humanservices.jp/meeting/2012/7.pdf )
中鹿直樹・森 大典・尾西洋平・乾 明紀・望月 昭. 2012. 知的障がい者の分類作業における作業量・作業精度向上に対するセルフチェックの効果-信号検出理論に基づく分類カテゴリーの利用-. 日本行動分析学会第30回年次大会発表論文集, 76.
辻岡誠也・土田菜穂・森大典・尾西洋平・林荽廷・中鹿直樹・望月昭 (2011) 大学内模擬喫茶店舗における特別支援学校生徒の就労実習―ビデオモデリングによる「できること」の自己評価指導―. 対人援助学会第3回年次大会発表論文集.
(抄録→ http://www.humanservices.jp/pdf/2011_14tujioka.pdf )
以上

質的研究,量的研究,科学的な事例研究

 少しまえにレポートとして提出したものを公開しておこうと思う。質的研究と量的研究について考察したもの。昔からか抱く哲学については興味をもっていたので、それを合わせて書いてみた。

1.はじめに

 質的研究・量的研究は,研究課題に対して論証を行っていく方法論だと考えることができる。それぞれに質的研究であれば,インタビュー,参与観察など,量的研究では統計学を活用したグループデザイン,少数の事例からなるシングルケースデザインなど様々な方法がある。また,さらに議論となるのが,これらの方法を使用するには,いかに"科学的"であるかである。しかし,何が科学であるか,疑似科学なのかにはまだ明確な線引きはされていない。そのため,研究課題を解決していく中で,必ずしも絶対的な方法論は現在のところ存在していない。各方法論に基にある哲学的な考え方が必ずあり,そこを認識して使用しなければ間違った用法となってしまう。

2.演繹法帰納法

 科学であれ学問であれ,それらは論証(論理的に主張)する営みであり,それぞれに裏付けとなるものが必要である。論証を行っていく中で,使用されるものとして演繹法帰納法がある。この両者の関係は論証を行っていく中で重要となってくる(戸田山, 2002)。妥当な論証を行うには演繹法が必要となるが,科学的な方法を取るには仮説を生成するには帰納法が必要となる。演繹法は予め得られている情報から情報量は増えることがないが,論理的に妥当である。しかし,仮説を立てるためには現存するデータなどから帰納的に情報量を増やさねばならならず,そこには必ず妥当ではない論証が行われる(戸田山, 2005)。

3.科学的であるとはどういうことか

 一般的に科学とは量的研究のことを示す。心理学の研究方法の書籍を外観しても,質的研究に関して哲学的な記述がなされているものはあるが,量的研究がどのような哲学的なものがあるかは記述されていない(高野・岡, 2004; 渡辺, 2007)。ここにそもそもの量的研究と質的研究の認識の違い見られる。さて,何が科学的であるのかを知るためには,科学史と科学哲学の力を借りねばならない。科学哲学のなかで何が科学かを見極めるための方法として,反証主義なども提示されているが決定的ではなく(戸田山, 2005),パラダイム論などもあるがこれもまだ決定的ではない(伊勢田, 2003)。

4.量的研究とは

 量的研究は,主に「数値」を使う研究方法である。主に過去の自然科学から使用されてきたものであり,そこには論理学や数理論,数学とくに統計学パラダイムが大きく反映されている。言い換えれば,数学や統計学を使用した方法論が量的研究と言える。この方法論は人間科学だけではなく,多様な分野で使用されている方法論である。しかし,統計学が適用されているが,とくに推測統計学は確率論に基づいたものであり,完全な論証を行うものではなく,先に述べたように帰納法をそのパラダイムの中に含んでおり,原理的にエラー(Type I Error, Type II Error)を産出する恐れがある。統計学が使用される場合,データの要約を目的としての記述統計学の利用,確率論を使用した推測統計学の利用による有意差検定が用いられていることが多い。しかし,統計検定を使用するだけではなく,記述統計を主に使用しながら,少数事例のデータを記述することで,法則定立的な原理や理論を構築していく方法もある(シングルケースデザイン; Barlow & Hersen, 1984)。この方法はある対象者一人一人を記述することから,個性記述的(事例記述的)とも言える。ただ,時系列的に分析を行っていくのは,この方法だけではなく,多くのサンプルを使用した方法にも見られるものであり,シングルケースデザインのみの特徴ではない。

5.質的研究とは

 量的研究とは対照的に質的研究は,インタビューや参与観察によって得られた基本的に言語データを利用して,人や社会を記述しようとする試みだといえる。質的研究で使用されるデータには,日記や日誌,当事者の語りを記録した録音記録,その録音記録を文字に起こした資料,新聞・雑誌の記事あるいは伝記等の既に刊行されている二次的資料,フィールドノーツや観察記録,あるいはビデオ映像や楽曲などがある(佐藤, 2008)。また,量的データ(数値データ)との違いも強調されている。質的研究は言語を使用した研究であり,人独自に適用されるものである。そもそもの哲学的背景はポスト・モダニズムにはじまる社会的構成主義であり(Kvale, 1992),そのような哲学的な認識論の違いが量的研究とは異なる。だが,まだ質的研究が何かということに明確な答えはでていない。

6.量的研究と質的研究の比較

 量的研究の哲学的背景は,論理実証主義反証主義などが科学哲学の中で論じられてきていたことがもとになっており,主観的ではなく客観的に分析を行うための方法である(戸田山, 2005)。しかし,質的研究はそうではなく,そもそも主観的も客観的もなく,相対的に事象を(さらにいえば解釈学的に,現象学的に)分析しようとするもので,哲学的議論で対立する。そのため,単純に量的研究が法則定立的であり,質的研究が個性記述的であるとは分類できない。
 法則定立的なものが量的研究であり,個性記述的なものが質的であるといった見解もある。しかし,シングルケースデザインは量的研究でありながらも,個性記述的であるし,質的研究の全てが法則定立的なものではないといったことははっきりとは明言できない。しかし,数値データを取り扱うことが量的研究であると単純に結論づけることはできない。これらの二者を比較するためには,認識論まで遡って検討しなければならない。それぞれが持つ科学観は異なる。もとは論理実証主義の流れや自然科学の流れを受けた量的研究と,それでは表現できないという事柄を示すために,アンチテーゼとしてでてきた質的研究は社会構成主義の流れをくむものであり,一概に比較することはできない。確かに,実用主義的に両者のそれぞれの利点を活かして利用しようという混合研究法がないわけではないが(Cewawell & Plano Clark, 2007),この場合には量的か質的かといった議論ではなく,論証の妥当性の問題に還元することができる。このように考えると,量的・質的ともその方法論は違うもが,何かしらを論証するという行為においては共通するところである。さらに,量的研究は仮説検証型研究であり,質的研究は仮説生成型研究という分け方もされている(質的研究のさらなる検討は西條, 2007; 西條, 2008を参照)。1.7.科学的事例研究について次に科学的な事例研究であるが,これはつまり科学的な方法論を使用した事例研究とはなにか,科学とは何かという疑問と同じように考えることが可能なのであろうか。臨床心理学などの事例研究は,質的研究の一部に見られるように,対象となる事例の個別性や特殊性に焦点が当てられている。

7.では私たちはどうすればよいのか

では,私たちが何を求めて何を目的として研究するかを考えたとき,量的研究と質的研究のどちらの方法を取るのが最善な選択となるのであろうか。上記でも示したように混合研究法として両社の研究を"実用的"に使用して,研究を進める動きもある(Cewawell et al., 2007)。これははじめに記述したように,研究の課題を論証し立証していく過程に置いて,よりよい方法なのかもしれない。

引用文献

Barlow, D.H. & Hersen, M. (1984). Single Case Experimental Designs. PERGAMON BOOKS Ltd. 高木俊一郎・佐久間徹【監訳】. (1993). 一事例の実験デザインーケ-ススタディーの基本と応用-改版. 二瓶社.
Cewawell, J.W. & Plano Clark, V.L. (2007). Designing and Conducting: Mixed Methods Research. Sage Publications, Inc. 大谷順子【訳】. (2010). 人間科学のための混合研究法 質的・量的アプローチをつなぐ研究デザイン. 北大路書房.
伊勢田哲治. (2003). 疑似科学と科学の哲学. 名古屋大学出版会.
Kvale, S. (1992). Psychology and Postmodernism 1st Edition. Sage Publications. 永井務【監訳】. (2001). 心理学とポストモダニズム 社会構成主義ポストモダニズム. こうち書房.
西條剛央. (2007). ライブ講義・質的研究とは何か (SCQRMベーシック編). 新曜社.
西條剛央. (2008). ライブ講義・質的研究とは何か (SCQRMアドバンス編). 新曜社.
佐藤郁哉. (2008). 質的データ分析法―原理・方法・実践. 新曜社.
高野陽太郎・岡隆(編). (2004). 心理学研究法ー心を見つめる科学のまなざし. 有斐閣アルマ.
戸田山和久. (2002). 論文の教室. 日本放送出版協会.
戸田山和久. (2005). 科学哲学の冒険. 日本放送出版協会.
渡辺芳之. (2006). 不正行為と倫理. 新・心理学の基礎知識, 16-17. 有斐閣ブックス.
渡辺芳之(編). (2007). 朝倉心理学講座1心理学方法論. 朝倉書店.
米本昌平・松原洋子・臏島次郎・市野川容考. (2000). 優生学と人間社会 生命科学の世紀はどこへ向かうのか. 講談社現代新書.

「差別」と「区別」の行動的定義の思考

yohei11152012-12-11


 世の中でときどき頭を悩ますものとして、「差別」と「区別」の違いがある。この2つの言葉は「一見して同じように見えて違う」という意見と、「本質的には同じ」という意見に分かれる。区別することそのものがよくはないといった意見もあるだろうが、果たして区別することなしに我々は生活できるのであろうか。対人援助を行う上でも、

日本国語辞典によると、「差別」とは、

(1)けじめをつけること。差をつけて区別すること。ちがい。分別。しゃべち。しゃべつ。
(2)特に現代において、あるものを、正当な理由なしに、他よりも低く扱うこと。

となる。おそらく(2)の定義がもっとも一般的に使用されているのではないだろうか。ただし、(1)に"差"をつけて区別するという意味がある。

次に、「区別」は、

(1)ある事物を違いや種類によって分けること。また、その違い。

となっている。ここに"差"をつけるという意味はない。

 では、行動的定義ではどのよう考えることができるのであろうか。行動的定義をするということは、それが「行動」でなくてはならない。そのためまずは単純に「差別する」と「区別する」と変換する。その後、それぞれの行動がどのような行動なのかを考察する。

 これらの2つの行動を考えるにあたって、QOLを一つの視点として取り入れたい。さて、先に挙げたように行動的定義とするにはQOLも行動として捉えねばならない。これまで望月(2005)はQOLに行動的QOLを提案している。行動的観点からQOLを拡大する作業を「正の強化を受ける行動機会の選択肢を増大する」こととしており、つまり、行動的QOLとは、正の強化により維持される行動の選択肢の数」である。これでは当事者のとりうる行動の数で表現しており、操作可能なものである。

 では、区別されることにより、どのようにQOLが変化し、差別されることにより、どのようにQOLが変化するのであろうか。「区別する」というのは当事者の行動選択肢の増加または維持がなされる。「差別する」というのは当事者の行動選択肢の減少を意味する。 例えば「Aだから〜をできない、させない」は差別と解釈できるが、「Aだから〜をして、〜をできるようにする、できないようにさせない」は区別になるのではないだろうか。つまり、区別することにより当事者の行動的QOLが増加するように働きかけることは可能であるが、差別することではそれは生まれない。

 また、望月(2007)は「障害者割引」についてブログで書いているが、より具体的な随伴性に関しての言及がなされている。割引はハンディに対しての援助設定としてあるが、その援助のあり方や具体的支給方法について書いている。少し長いが一文をそのまま引用してみる。

第二の軸は、そもそも「割引」というのは、特定の対象に限定したものであるということです。先に述べたように「割引」というのは、その交換の時点では、電車に乗るとか、タクシーに乗るといったように用途限定です。用途という特定の行動の成立に対して選択された上で割引はおこなわれているわけです。当然ながら「ラッキー」ではあってもその行動選択肢は他と較べて、使う側にも選択しやすいものです。選択しやすくなる、というそれだけを捉えれば、ポジティブな話なんですけど、選択を他者に指定されているともいえます。個人個人で、その「割り引かれる」選択肢を選べるかというと、そういうシステムではないですよね。では、割引かれる行動の選択肢を自分で選べるという風にするにはどうしたらよいか、と考えてみると、それは実は「お金」で渡しておくということです。

割引があることはハンディへの「区別」として捉えることだできるが、用途が限定しているというのはまだ「差別」的なのかもしれない(しかしながら、そもそもそこにハンディがあることがやはり差別的なことなのかもしれない)。

 以上、それぞれがもつ本来の言葉の意味は異なるのであろうが、日常的に使われている意味と、行動的QOLの観点から考察すると「区別する」ことと、「差別する」ことは以上のようになるのではないだろうか。このように"区別する"ことが、どのように社会的有用性を持つかは定かではないが、行動的観点からの「どうして区別するのか?」という疑問に対しての1つの回答に、「どうして差別してはいけないのか?」という疑問に対しての1つの回答になろう。

引用

望月昭. (2001). 行動的QOL : 『行動的健康』へのプロアクティブな援助. 行動医学研究, 6, 8-17.

やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、 ほめてやらねば人は動かじ

yohei11152012-10-10

久しぶりにブログを書く。最近、よく考える山本五十六の明言から。

「やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、 ほめてやらねば人は動かじ。

 話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。

 やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」

山本五十六


 最近、このことをよく考える。対人援助としても非常に重要な考えだ。

一行目

 一行目を行動分析学の言葉で言い換えると、「モデリングを行い、インストラクションし、対象者に実際に全課題提示法で行なってもらい、必要に応じて強化手続きを実施する」ということかな。これって、障害児者支援ではよく行われていることだけど、一般的にも非常に重要。行動形成に関係している。

二行目

 そして、二行目はさらにメタ的な支援者と対象者との関係。当事者を軸に自己決定を促すことが必要。当事者不在の支援は支援ではない。当事者の自己決定を支援し、正の強化で維持される行動の選択肢の拡大(行動的QOLの拡大)につなげていく。

三行目

 最後に、三行目はまさに心構え。焦らずに手を出し過ぎないように見守ることも必要。すぐに手を出したら当事者の自発性を損ねてしまう。ここは支援者としての辛抱が試される。黒子に徹するのが対人援助者であると思う。対人援助者は脇役なのだ。




対人援助者だけではなく、人を育てたり支える立場になってきて、とてもよく考えさせる言葉ですね。

高校野球を観戦して-多くの文化の混ざり合い-

 本日は高校野球を見に甲子園までいってきた。人生二度目の甲子園である。感想としては非常に楽しかった。


外に出かける理由

 最近は様々な場所にでかけて"経験"を得るように心がけている。つい先日も、四条河原町から鴨川沿いに歩いて鞍馬寺まで歩いてきた(これはまた後日アップしたい)。これは京都に住みながらも京都のことを何もしらないといった反省からきている。本日は京都とは関係ないが、以前から少なからず興味があった「全国高校野球選手権大会」を見に行ってきた。非常に感動した。だいぶ日焼けしたが。第2試合から観戦を開始して第4試合まで観戦した。

 このように私が自らを様々な環境に放り込むのは、その場の随伴性を体験するためである。様々な随伴性を実際に見聞きし体験することによって、自らの行動レパートリーの幅を拡げることが、または拡大する可能性を増加させることができる。これは今後の行動選択肢の拡大にもつながる。なぜなら一度経験したことは最低でも「知っている」わけであり、次に同じように行動する機会があった場合には、同じ行動(今回の場合では「甲子園にいく」)の生起確率が増加するためである。

 今回の場合は野球に詳しい、さらに甲子園には何度も足を運んでいる後輩とともにきて、分からないことを解説してもらいながら野球を観戦した。後輩は某球団の応援団にも在籍しており、野球の細かいルールやテクニックだけでなく、応援や売り子のことについてもいろいろと聞く機会に恵まれた。

多くの文化の存在

 しかしながら、野球というのも不思議な文化であるなと感じた。このように大勢が集まって楽しめるエンターテイメント性に限らず、今回の場合では高校球児がそれぞれの思いを秘めて互いに戦う。そして、また新たな経験を摘んでいく。大きな球場が作られ、多くの人たちが参画、参加し、また常連の文化や一見さんの行動も混じり合いながら、そこの場にはまた新たな行動が生まれていく。

 甲子園の常連さんの文化、それぞれの出場高校の文化、高校野球の歴史的文化がある。さらに、出場高校の文化は試合ごとに入れ替わって行く。また、応援しにくる人にも、どちらか高校を応援にきた人、高校野球を楽しみにきた人、デートの人、観光の人など多種多様な人がおり、それぞれの文化が入り乱れる。このような様々な文化が一つの場所に凝縮されているのが面白く、それが時間の経過により変化していくのもおもしろかった。他にも、野球の流れというのも確立操作として、捉えることができるのか?などと考えたりした。

対人援助者として

 対人援助者としても様々な人と関わって行く上で教養は必要となる。また、いろんなことを経験しているというのは、フットワークの軽さにもつながる。対人援助者としてはその場の文化を感じ、改めてその場のその場にはそれぞれの文化が形成されていることを感じとれたのは非常によかった。これはまだうまく言語化できないが、あまりする必要は感じてないが、今後とも様々な場所に出かけて教養を身につけ、その場その場の随伴性に身を任せてみたい。

最後に

 しかしながら、出場高校のあの場に立つだけでもすごいことやし、いろんな訓練があったんだろうなと。負けた選手たちの悔しさも、みているとこちらがジーンとくるものもあった。応援団の暖かさも感じた。本当に今回の経験はまたいい機会であった。是非ともまた観戦に行きたい(許されるなた今シーズンにもう一度)。

コミュニティ形成のための「カフェ」づくり

yohei11152012-08-14


 盆真っ盛りですが、今日は5冊ほどの本を回し読みをずっとしていました。その中でいい本があったのでご紹介とともに、少し思ったことを。

 本はコモンカフェ代表「山納洋(やまのうひろし)」さんの『カフェという場の作り方 自分らしい起業のススメ』。これは数日前に本屋に立ち寄ったときに惹かれて購入したもの。なんだかとても面白そうだなというのと、以前から情報の共有空間としての「カフェ」に興味があったため購入した。

カフェという場のつくり方: 自分らしい起業のススメ

カフェという場のつくり方: 自分らしい起業のススメ

 私はカフェを開くつもりもないが、この本はとてもいい本であった。日本におけるカフェの歴史から、実際にカフェを経営するときに発生するトラブルや、それに対する心構えといったものが書かれている。このあたりに関してはカフェをする人でなくても、コミュニティ形成や維持に関して興味がある人は十分に役に立つものであると思う。

 さらに、カフェがコミュニティを形成したり維持するため機能や、公共性、文化性を維持するための機能を持つことの重要性が書かれており、その点に関して、私は以前から京都では町屋を改造したカフェや、情報発信・共有のためのカフェがあったことに関心があったので、とても参考になった。

 さて、個人的に現在の大学院生という立場から考えると、また、これまで思ってきたことを付け加えると、大学にこのほんで取り上げられているような気軽に立ち寄れる「カフェ」、とくに個人的には学問を議論できる「カフェ」が大学構内に必要だと感じた。

 立命館大学衣笠キャンパス)にもないわけではないが、その場所には(例えばゆんげ)ラーニングコミュニティというよりも、スチューデントコミュニティのような色合いが大きい(学生会館が隣接しているからだろうが)。ラーニングコミュニティのために図書館内にピア・ラーニングルームもできている(2011年4月1日から; BKCは2012年4月3日から)。ここは図書館内ということもあり、いい学習空間として現在でも維持されている。しかし、飲み物はフタ付き飲料に限定され食物は禁止である(これは図書館内ということもあり致し方ないのであるが)。こうなるとコーヒーを飲みながらであったり、少しお菓子を食べながら、ということはできない。また、すでにできあがったコミュニティが使用するだけで、相互の交流は見ている限りはなく、相互啓発も少ない。

 そのため、私が理想とするような取り組みをしてはどうかと思い立ったりもした。場所はどうにでもできるだろうし、月1開催などやればどうにかなるんじゃないかと思ったり。そういった場を大学が提供してくれるかはわからないが。

 立命館大学は13学部で構成される総合大学であり、大学院は19研究科にも及ぶ。この総合性を発揮させるためにもキャンパス間の問題もあろうが相互交流できるコミュニティづくりが必要ではないかと思うのである。

 しかしながら、新しい取り組みを行うにも、それに参加するにもそれぞれに新しい時間的余裕と精神的余裕が必要になるし、せっかくできた関係性を維持するための取り組み必要なる。このあたりをしっかりと考えてから(コンセプトを明確にしてから)、実行に移さねばならないだろうが。

 以上、簡単であるがこの本を読んで思いついたことを書いてみた。

 コミュニティ形成と維持がどのように為されるのかを行動分析学的に考えてみたいが、長くなりそうなので今回はこのへんで。

セルフコントロール(self-control)とセルフマネージメント(self-management)の関係について-その1

yohei11152012-08-09

 数日前からセルフコントロール(self-control)とセルフマネージメント(self-management)の関係について調べている。きっかけはこの両者の言葉関係である。それぞれの用語が何を示して、何を表しているのか、である。最近ではセルフコントロールは衝動性(impulsiveness)と対比され、選択行動で研究がされている価値割引に関しての用語としても使用されている。

セルフマネージメント(self-management)

 まずはセルフマネージメントについてであるが、この用語は発達障害児の支援において用いられることが多い(竹内・園山, 2007)。このセルフマネージメントのスキルとしてMace, Belfiore, と Hutchinson (2001)は自己管理スキルの下位過程として、自己教示(self-instruction)、自己モニタリング(self-monitoring)、自己記録(self-recording)、自己観察(self-observation)、自己評価(self-evaluation)、自己強化(self-reinforcement)、自己弱化(self-punishment)を上げている。

セルフコントロール(self-control)

 次にセルフコントロールであるが、Skinner(1953)は『科学と人間行動』で「生活体は、関数となっている変数を変化させることによって罰せられた反応を生起にしにくくするであろう。このようなことに成功した行動は、自動的に強化される」ことと定義している。さらにそこでは、コントロールする反応(controlling responce)とコントロールされる反応(controlled responce)に分けて分析している。ここでは個体のある行動(コントロールする反応)が環境の変数を変化させ、それが自らの別の行動(コントロールされる反応)の生起確率を変化させる。

 図示すると以下のようになるのであろうか。

 コントロールする反応が、コントロールされる反応の先行事象や後続事象を変化させ、コントロールされる反応の将来の生起頻度を変化させる。この生起頻度を変化させる行動に上述したセルフマネージメントスキルが適用される。

 ここまで見てみるとセルフマネージメントとセルフコントロールにはやはり大きな違いはないように見える。この2つの用語の使用はそれぞれが用いられる文脈で使い分けれれているようである(詳しくはもう少し調査が必要である)。

論文数の変動

 さて、ではどのようにセルフコントロールやセルフマネージメントやセルフマネージメントスキルの用語が使用されているかを調べてみた。なお、セルフコントロールは自己制御(self-regulation)とも言われるため、その用語についても調査した。調査対象はJournal of the Experimental Analysis of Behavior(Jeab)とJournal of Applied Behavior Analysis(Jaba)とした。この2つの研究雑誌は長く行動分析学の雑誌としてあり、また論文名やアブストラクトからワード検索が公式Webサイトから可能であり、また全文をPDFとして無料公開していることから調査対象とした。

その1

 1つ目にJeabで"self-control"、Jabaで"self-control"と"self-management"及び、セルフマネージメントスキルの用語("self-instruction"、"self-monitoring"、"self-recording"、"self-observation"、"self-evaluation"、"self-reinforcement"、"self-punishment")を検索ワードとした。集計はそれぞれ1960年代、1970年代、1980年代、1990年代、2000年代で行った。

 上図の通り、Jeabにおいて、"self-control"が1990年代に至るまでにかけて増加しているが、2000年代で減少している。Jabaにおいて、"self-control"は1970年代から1990年代にかけてあまり変化がないが、2000年代で急に増加している。それと比較して、"self-management"は1990年代に至るまでに徐々に増加していたが、2000年代に急に減少している。"self-manegement skill"に関する用語は1970年代に大きく増加しているが、年代を追う毎に減少している。

 Jabaでの2000年代の"self-control"の急な上昇は価値割引に関しての研究が増えてきたためであろうが、まだそこは調査しきれていない。"self-management"や"self-manegement skill"に関する用語が減少している点は気になるところである。

その2

 次に"self-manegement skill"に関する用語の個別の変化を見てみる。

"self-recording"が1970年代と比較して大きく増加しており、"self-monitoring"も1980年代に大きく増加している。この両者はほぼ同様の意味で用いられるため、全体としてはself-manegement skillの研究の多くがこれらであることがわかる。ただ、"self-reinforcement"に関しても1970年代に増加している。しかしその後減少の一途をたどっている。さらにそのなかでも、"self-instruction"が安定してある。

その3

 さて、もう一つ図を作成したみた。self-manegement skillに関する用語がそれぞれどれほどの割合で使用されているかである。なお、1960年代は論文数が少なく、また割合での比較であるため2010年代も含めた。

 1970年代においては"self-reinforcement"が20%ほどあったが、2000年代からは0%となっている。"self-recording"と"self-monitoring"は三項随伴性での先行事象とも後続事象とも成りえるため、一概にはまだ現段階では明言できないが、"self-instruction"も含めて社会的随伴性(social contingency)の検討が十分になされていないのではないかという「感じ」がする。これはもちろんさらなる調査と検討が必要であるが、少し抑えておきたい点である。

最後に

 最後に自己と他者の行動のコントロールを検討するにあたって重要な点を、Skinner(1953)が以下の用に述べている。

人は他者の行動をコントロールするのと全く同じように、行動が関数となる変数の操作を通じて、自分自身をコントロールする。そのような人の行動は適切な分析対象であり、最終的にはその人の周りに存在する変数によって説明されるべきである。

 Skinnerはセルフコントロールと他者のコントロールを大きな違いとは捉えておらず、セルフコントロールも最終的には対象となる個体外の環境に変数を求めることを強調している。ここは重要な点であろう。人は社会的な生き物であり社会的随伴性の検討は必ず必要である。それら他個体との関係も、さらに言語行動との関係も変数として十分に検討にいれながらセルフコントロールやセルフマネージメントに関しては検討していく必要があるし、実際にそれらの技術を現場で応用するにしても、以上の点を十分に考慮にいれなければならない。

 私個人としては現在、学生ジョブコーチ(Student job corch)をしているためか、最近また行動分析学を私自身で再考しているところであるが、オペラント行動は後続事象の操作こそが重要であり、そこに重点をおいた記述や研究が必要ではないかと考えている。この点も含めて今後もさらに検討をすすめたい。

引用文献

竹内康二・園山繁樹. (2007). 発達障害児者における自己管理スキル支援システムの構築に関する理論的検討. 行動分析学研究, 20, 88-100.
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