直接観察できない「心」

心理学を一言でいうなら「人間行動の科学」であると言える。では、そもそもどうして、行動を扱うのか。心理学の名の通り、「心」を直接扱えばいいのではないかという疑問がでてくるかもしれない。

しかし、心は直接扱うことができない。これは何か直感とは異なるかもしれない。だって、「私というのは存在しているよ」と誰も思うことであろう。一個人としては。

まず、「心」といっても何を持ってその名を定義するかである。心理学で扱う「心」は、魂でもなく、人(and動物)の内的過程である。しかし、この内的過程を捉えることは容易ではない。
なぜなら、それを直接観察することができないからである。
私はどんなに努力しても、目の前の人の「心」を見ることはできない。もちろん、感じることもできない(なんか、こう書くとまるで私が冷たい人みたいだな)。あくまでも、推測を行っているにすぎない。

「心」を主観的には理解できるかもしれないが、それを客観的に理解するためには、その人の表出する行動を観察するしか方法はないのである。ここに心理学の違和感があるのかもしれない。

ここでいう観察は広義の意味での観察である。
(観察というと、ただじっと何かを見るといった印象が抱かれかねないが、ここには実験、調査、インタビュー、測定などなどといった意味も含んでいる。)

つまり、心理学は直接観察できないことを間接的に、行動という媒体を利用して「心」を取り扱うのである。そして、その「心」を説明するために、様々な概念が持ち込まれ、モデル化されたりしている。

まことに不思議な感じがする。直接観察できないものを取り扱う学問。それが心理学。
(まぁ、突き詰めれば直接観察している学問はほとんどないとは思うが。物理学で扱っている重力だって、概念に他ならない。直接観察はしていない。)

それにしても、直接観察することができず、さらに、なかなか複雑な環境下におかれている観察が困難な人を扱うのは、ほんまに難しいなと。

それでも、私は心理学を専門としようとしているわけである。

そりゃさ、構成概念を持ち込めば、簡単に説明を行うことができるところもたくさんあるとは思うんだが、何かしらの構成概念を持ち込むということは、一個人を標準化してしまうわけだと思う。それっていいのかなと率直に違和感を感じる。人は、それぞれが人なのだから。この辺はもう少し考察していこうと思う。