最近の考えていること

 久しぶりに2009年度に受講した武藤先生の「行動分析学」のノートや資料を読み返してみた。読み返しながら、当時は十分に理解できていなかったことが、今では、十分に理解していることも多いなと自らの成長も確認できた。しかしながら、行動分析学の理念というか目的を十分に理解しきれていなかったかなと改めて実感することになった。
 行動分析学は大きく分けて実験的行動分析学と応用行動分析学と理論的(概念的)行動分析学に分けられる。私はどのようなことも基礎をしっかりとしてからではないと次に進むのが嫌な性分である。そのため、これまで意識的に応用行動分析学での成果をあまり学んでこず、実験的行動分析学や、またその基礎となるこれまでの研究成果に関して学んできた。(※本来は基礎も応用も分けるのはしないのが行動分析学だが)
 これも、現在、立命館大学で学んでいて行動分析学が専門の先生方の話を聞いていると(特にゼミの先生)、その話の内容の端々に非常に多くの知識と基礎的なことを身につけているのを感じていた。そのため、私はこの1年間、行動分析学の基本的なことを学ぼうと必死に勉強してきたつもりであった。しかしながら、何かを覚えているのかと問われれば特にないとしか言いようがない。これといって、どういった研究が行われてきたかはさらっと出てこない。あぁ。。と落ち込んでしまう気分だ。
 でも、よくよく考えてみれば、18歳で高校を卒業して働き出して、1年目で何か覚えられたかと言われれば何も覚えられていなかったのはあった。その後、2年目にしてやっと仕事を覚えられるようになり、3年目で工夫をすることができるようになった。そうして考えてみると、この1年間は行動分析学の考え方に慣れるための1年間であったのかなと思う。どのように行動分析学が個体の行動を捉えて分析するのか。今ではそこのことに関しては自信を持って話すことができる。これだけでも大きな成果であったのかもしれない。
 相手を知ることよりも"今"の相手に何を与えることができるのか、当事者がgivenされるのではなく、getできるような状態に持っていく。これは、私が将来、行動分析学をビジネスの現場で発揮させていきたいといった、ビジネスの実践場面でも重要な考えだ。
 それにしても、私は将来はどのようになりたいのか。このまま大学で研究者を目指すのか、それとも専門的に学んだ行動分析学でバリバリに社会に打って出るか。はっきりといってよくわからないのが現状だ。どのように私がなりたいのか。それをはっきりとしなければならない。どのようなことを人生を賭けてでも成し遂げたいのか。そして、そのためには何を学び、どこで経験を積んで自らを高めていくのか。その答えはどこにあるのだろうか。
 場面は変わるが、私が働いていたときに同様のことを考えたことがある。「私はどうして働くのか」である。この答えを見つけ出すまでは本当に長い時間を要した気がする。はっきりとは覚えていないが。そして、当時、導き出した答えが「恩返し」であった。私がここまで生きてこれたのも本当に多くの人たちのおかげであり、さらに私を育ててくれた親もまた同様に多くの人たちにお世話になってきた。その多くの人たちに恩返しがしたいと私は思った。でも、そう簡単にはできない。では、どうするか。それは、今、与えられている仕事を一生懸命に取り組んで完遂すること。どのような些細なことであろうと私が行った仕事が様々なことにつなっがていつか、はお世話になった人たちに届くはずだと考えた。そう考えるとどのような些細な、ましてや人が嫌がるような仕事も進んで楽しくできるようになった。現在も、どうようのことに私は今、悩んでいるんだと思う。場面は違えど本質は同じだと思う。もしかしたら違うかもしれないが。
 また、それに併せて働いていた当時、ある本に出てきた「私たちは仕事に呼ばれる」というフレーズが頭から離れず、どうしても理解することができなかった。でも、これもなんやかんや考えているうちに理解できるようになった。現在、私は様々な役割を持っている。おそらく働いていた時よりも多くのことに取り組んでいる。そのおかげで、いろんなことを経験できているし学ぶことができている。


 でも、なんかよくわからないな。どうしたものか。まぁ、考えてもよくわかないことをいつまでも考えてもそれは悩んでいることにしかならないので、こういったときは、考えるのをやめて違うことをするのがいいのだ。

 なんか、またまとまりのない文章になったな。