図書館、それは整備工場

少しは日常のことを書いてから、いつもの感じに移ろうかなと。

本日も朝一番から、学内のアルバイトを一つ終わらせて、図書館にと。
何かと落ち着かなくて、何をしようかな〜、やるきがでないな〜、と思いつつも、図書館に来てとにかく座ってみると、自然と落ち着いてやる気がでてくるものだなと感じる。

だが、それにしても彼じy…おっとこれ以上はやめておこう。



さて、以下、最近考えていることを文章化してみた。

心理学を学びながら考えるテーマ
・心理学は歴史(過去)をどこまで捉える事ができるのか
・心理学と他の学問との接点

どうして、このような2つのテーマがあるのかというと、私自身が「心理学」という学問に疑問を抱いているからにある。


前にも、「ある学問を行うものは、その学問に対して批判的であれ」といった旨のことを書いた。これはなにも、「否定的である」こととは異なることを再度、強調しておきたい。常に、更なる「可能性」をあきらめない、ということである。


そもそも、科学的方法にしろ、他の方法にしろ、「究極的に真実を知る」ことであったり、「できない」ことを証明することはできない(この表現自体も循環論に陥っている)。つまり、科学的方法であれ、ある学問を修める立場にあるものが「その現象はどのような説明を試みようがあり得ない」ということ自体が、学者としての態度に反するわけである。


否定はできなくても、根拠が減退することはある。ある仮説が出たとしよう。その仮説が「〜だから、〜です」と主張しているが、それに疑問を持つ人がいた。それを反証するために、何かしらの他説を立てて、その他説の方が正しそうであれば、その他説が有利になる。その結果、先にあげられていた仮説の根拠は減退する。決して可能性はゼロにはならない。


「〜ではない」というのは、暗に「ある因果関係を示すためには、その根拠、論理過程は適切ではない」という意味が込められているのである。

さて、では「ある現象が存在する可能性」が、微々たるもの、0.000…1%でも、研究する価値があるかどうかといった疑問がでてくる。

私は、このことに関してはまだ考察を仕切れいていないが、「可能性は否定できない」ということは言える。今のその学問の水準では立証できない、または認められないだけである。
たとえ話(作り話)であるが、「目には見えないある波のようなもので、離れた場所と連絡をとることができる」と、それが信じられない時代に主張したとしよう。おそらく、そのようなことが考えられていない時代では、「そんなことできない」と一笑されていただろう。でも、多くの科学者の努力と技術の進歩などにより、現在ではまるでそれが当たり前かのようになっている。


学問はその時代・場所により規定、制限されてしまう部分があるだろう。しかし、現在はグローバルな時代となり、場所による制限はほとんどなくなり、また情報技術の発展により、すぐに情報を探し出すことができる。さらに、すぐに有用性を求める傾向があるように感じる。


グローバル化・情報化社会の中で、学問自体がどのように変容していくのか。だが、そのような中でも、可能性を捨て切らない真実への探求が、阻害されないように願いたいものである。


心理学も130年ほどの若い学問である。ある一時に、科学であろうとして心理学としての一つの方向性ができ、様々な影響もうけつつ現在に至る(というか、そもそもパラダイムシフトをしていない学問があるのか?)。この昨今の社会の中で、心理学がどこまで真実への探求や、社会問題への対応に貢献できるのかを、自分自身の学問の目的と並行しながら、その可能性を追求していきたいと思う。



さて、様々論理がものすごく飛躍しているところもあるなぁ…と。まぁ、ようは「科学は否定したら終わり」ってことを主張したいんだけなんだけどね。なんか、書きながらも思ったけど、こういったことを主張しようとするだけで、ほんまにまだまだ考察や根拠が足らないところがあるなと痛感。

でも、こうして少しずつ書きためていったら、そのうちこれで何かしらのレポートが書けるんじゃないかと思う。まぁ、これはそのアウトラインのアウトライン的なぐらいで捉えておこう。